フィリピンと日本の関係。
さあさあさあ、
ではまずは私の初GoProムービーをご覧ください!笑
2016/11/16.
ミンダナオ島のカリナンとゆー場所にいってきました!
お目当はこちら!
Philippine japan historical museum
フィリピン-日本歴史資料館
泊まっているダバオのダウンタウンからバスで1時間ほどのところにありました!
うん!マニアック!笑
歴史資料館大好きなんだな〜。
私はその昔に海を渡った日本人にとても興味があるのですが、フィリピンのことは今まで全然知らなかったー!
そもそも、日本と東南アジアとの関係もよくわかっていないのでこれを機に勉強しようかと、、、!!では、私の覚えたてホヤホヤの拙い知識と資料館で見たものをざっと紹介します!
もともと日本人が労働目的でフィリピンにきたのは、マニラのあるルソン島のインフラ工事の出稼ぎだったみたい。1900年代初頭に、500人ほどの日本人がフィリピンで道路工事に携わったよう。そのほとんどが沖縄出身者だったとか。これが、その道路の名前、ベンケット道路に由来して、ベンケット移民と呼ばれてたそう。
マニラでベンケット移民達が肉体労働をしている頃、今私のいるミンダナオ島:ダバオでは太田さんとゆー兵庫出身の実業家がアバカとよばれる植物(通称:マニラ麻)のポテンシャルに目をつけて農地を購入。
ダンディな雰囲気の太田さん
ベンケット工事が終わったあと、日本に戻るものもいたけど、アバカの需要がフィリピン国内で増加したため、フィリピンに残りアバカ栽培に携わる人たちもいたと。アバカはバナナの葉っぱに似てるんだけど、葉っぱがバナナと違ってまっすぐなのが特徴みたい。
で、これを細い糸状にして編むとすごく丈夫!
衣類や繊維に使われていたそうです。
更に、水に濡れるとものすごく丈夫になる事から、船舶用のロープにとても重宝されたんだって!
ダンディ太田さんは、ベンケット移民のリーダーだった、沖縄出身の大城さんとゆー方とタッグを組んでアバカの栽培から製品の製造までを一貫して行う、太田興業株式会社設立!
第一次世界がはじまると船舶用のロープが売れる売れる!それで、沖縄を中心に日本からたっくさんの日本人がミンダナオ島:ダバオにきたんだと。
アバカの売買は、ダバオから1時間半、この資料館のあるカリナンから車で20分ほどのミンタルとゆー地域か中心となって、リトル東京とよばれる日本人街までできたそう!
なんと1930年代の日本人人口は約2万人!わお!
しかしなぜ海外の日本人街の名前はリトル東京なのだろう。。東京出身者てそんな多くない気もするのに。リトル大阪とかでもえーやん。
当時アメリカの統治下であったフィリピンでは、日本人の土地所有が認められなかったことから、フィリピン人の女性と結婚する人も多かったみたい。
そういえば、ハワイに留学していた時に、おじいちゃんが沖縄でおばあちゃんがフィリピン人ってゆー友達がいたけど、そーゆーことだったんだ!
ちなみにハワイでは、日本人はジャパニーズ、沖縄出身者はオキナワンと呼ばれていて、日本と沖縄は別とゆー考えが常識だった。きっとアメリカに同化させられたハワイの人にとって、沖縄の歴史は共通するところが多く、そういった区分けが自然とされてるんだなぁと思ったり。。。
話をフィリピンにもどします!笑
当時のフィリピンの日本人社会では、なんと14もの日本人学校があったみたい。
移民先に日本語学校を作るのは日系人あるある。やっぱり親は日本式の教育を子どもに受けさせたいよう。
「さあ〜、ここでクエスチョンです!
アバカは主に敷物や船具として重宝されていましたが、日本人学校でも、アバカを使った<ある物>が生徒達に使われていました。
その!<ある物>とは一体なんでしょうか〜?」
トゥルルルトゥルルルチャーン♫
「はい、野々村さん。」
「それは今の小学校でもつかわれてますか?」
「そうですね、アバカではないかと思いますが、使われてます。」
。。。
「それでは答えをみてみましょう!
(勝手に!)世界ふしぎ発見!」
「小学校といえば、運動会!
運動会といえば、
そう!綱引きです!
正解は綱引きの綱!でした〜」
黒柳さんお見事!
残念ながら、、、[以下省略]
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しかし、第二次世界大戦の開戦と同時に日系人社会は混乱します。
日本軍がフィリピンに上陸すると同時に日系人たちは日本軍への協力が余儀なくされ、隣人であったフィリピン人と敵対しなければなりませんでした。命を失う者はもちろん、残虐行為の手助けをした者もいたと言われています。終戦後、生き延びた日系人は日本に強制送還となりましたが、父親が既に戦死していたり一家離散となったため日本へ帰国できない日系2世の子どもたちはフィリピン人の母親とフィリピン残留となりました。また、両親を失って孤児になった2世も少なくありませんでした。
彼らは戦後の反日感情に晒されることとなります。その多くは人里離れた場所でひっとりと、日本人であることを隠し通しながら母親の姓を名乗り苦難の戦後を生きたそうです。また教育の機会も奪われたため、そのほとんどはフィリピン社会の貧困層となってしまったそうです。
一方で日本への帰国がかなった日系2世たちは、1960年代後半にフィリピンへの入国が許可されます。彼らは観光客として再びフィリピンを訪れました。そして、幼少期を過ごしたフィリピンを懐かしむと共に、現地の人と共に過ごし育んできた頃の日本文化を残していくべきだという考えに至り、1994年に資料館を建てることにしたそうです。
ここで資金繰りに多大な貢献をしたのが武蔵野ライオンズクラブとゆー東京にある国際奉仕団体。http://tm-lions.com/about_lionsclub.htm
色んな活動をしている方がたくさんいるんだな〜
そして毎年終戦の日には、戦争で家族を失った日本人がミンタルにある日本人墓地に追悼に来ているそうです。
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今私がフィリピンにいることは奇跡に思えるし、なんて自由で恵まれた時代に生まれたんだろうと思う。でも、そう思えて良かったなんて単純に感じてしまう自分がなんだか少し情けなくて、、、。
今ある当たり前には、それを当たり前にしてくれた人達がいることは何に関しても言えることで、当たり前なんてないんだなとゆー謙虚な気持ちと感謝の気持ちを忘れずにいられる自分になりたいと願うのは、いろんなものが何不自由なく手に入る時代を生きるもののエゴなのでしょうか。
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最後は明るく楽しい話題😝
この資料館、小学校が併設されています!!
資料館を案内してくれたエンジェル先生にお願いして、授業風景を見学させてもらうことができました♡♡♡
先生はすぐ近くのミンタル国際大学の日本語学科を卒業した新卒1年目の先生^ ^
日本にも来たことがあるみたい。
日本語のレベルが高くてびっくり!!
しかも可愛い。
先生、日本に来たら私がジャパンを案内するからね!
授業風景がこちら。
小学校5年生はカタカナを勉強中。
https://splice.gopro.com/v?id=G6rAwZKJb
こちらのムービーもみてね!(^o^)
やっぱ学校っていいよな〜。
子ども達のパワーって本当すごい!
ちなみに、フィリピンの歴史をもっと詳しく知りたい!
って方は、tamam010yuheiさんのブログがとってもわかりやすかったのでシェアさせていただきます^ ^
http://reki.hatenablog.com/entry/2015/08/10/日本人が知っておくべき日本・フィリピン関係史
すごく長くなってしまいましたが、
最後までお付き合い頂き有難うございますヽ(;▽;)ノ♡♡♡
ちなみに今晩フィリピンからシンガポールに移動しまーす!
ーーー追記ーーーー
日系人会館に突撃訪問。11/18