イチャリバチョーデーではなくイチャル前からチョーデー。ボリビア日記③
南米ボリビアにある、海のないオキナワにきました。
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8/22(火)
昼過ぎに帰国するまゆみさんをタクシーへと送った後、そのまま町をプラつく。金城商店と書かれたお店に入ってみると、何だかとってもいい匂いがした。あれだ、アンティクーチョだ!驚くことに、南米ベスト屋台飯のアンティクーチョ(ペルー編参照)は沖縄のソウルフードである天ぷらになっているではないかあああああああ
店番をしていたおばあは日本人の顔をしていた。思わず話しかけてみると、明日の朝8時に診療所で行う体操クラブに誘ってくれた。やったー!嬉しい!
8/23(水)
朝7時50分。ドキドキしながら診療所へいく。
受付で金城商店のおばあに誘ってもらいましたー!と伝え、中に通してもらったのだけど、輪になって座っているおじい、おばあの中に金城商店のおばあの姿はなかった。輪の中心にいた職員の女性にわけを話すと、快く迎え入れてくれたので一安心。よそ者を輪の中に入れてくれるのは、オキナワ気質なのかボリビア気質なのか。いづれにしてもとっても嬉しい。
診療所では週に数回、村のおじいおばあの健康のため、体操クラブが行われている。私も一緒にボール遊びや、ストレッチを行った。体操終了後に片付けを終えると、職員のきみこさんしずえさんが「コーヒー飲んでいきな〜」とゆんたくに誘ってくれた。自分が旅をしていること、日系人の歴史に興味があってここを訪れたことを伝えると、きみこさんの義理のお父さんが第一次移民としてボリビアに来たから、話聞いたらいいよ〜!と、早速電話をしてくれて、あれよあれよと言うまにお宅訪問をさせてもらうことに。その義理のお父さんというのは、先ほどまでの体操クラブで一緒にボール遊びをしていた敬光さんだった。
敬光さんの話は寄稿した記事から抜粋!
地球の裏側にあるオキナワ | | OKINAWA41 (ここからは全文が読めます!)
フィリピン、沖縄、そしてボリビア。
体操クラブで出会ったおじいの名前は「比嘉敬光」さん。1938年生まれ。
高い天井が印象的な、広々とした居間に案内してもらい、話を聞くことができた。
生まれは沖縄ではなく、フィリピンのダバオ。当時アカバ麻の産業が盛んであったため、父親が沖縄から出稼ぎに来ていたのだった。
敬光さんが7歳になる1945年、フィリピンで終戦を迎えた。
その後アメリカ軍に連れられて帰国。収容された熊本の小学校の校舎に窓ガラスはなく、亜熱帯育ちの敬光さん兄弟にとって、阿蘇の麓の熊本の冬はとても寒かった。
もともと5人兄弟だったが、寒さで体力を奪われ、風疹を患ったお姉さん2人をそこで亡くした。
敬光さん一家が沖縄に戻ることができたのは終戦から10ヶ月が過ぎたころ。
その後の少年期を過ごした沖縄はでの生活は、食糧難でひもじい思いもたくさんしたが、何より学校に通えたことが嬉しかったと振り返る。
(趣味はカラオケと三線)
敬光さんが16歳になった年、沖縄県人に南米移住の募集の話があがった。
もともと、沖縄県出身者がボリビアに渡ったのは1900年代前半。ゴム栽培のために南米への移住がはじまり、主にペルーで働いていたグループの一部がボリビアに移動し、定住が始まった。彼らは戦後、故郷沖縄の惨状を知り移民を呼び寄せる計画に尽力。琉球政府より「南米ボリビア農業移民募集」が制定された。
そして、4,000人を超える応募者の中から選ばれた第一次移民275人を乗せたチサダネ号が、1954年6月19日に那覇を出発した。敬光さんは、両親と兄、弟の家族5人で船に乗った。
(ご自宅で奥様の手料理をいただいた。お豆腐屋さんが週2日、村に売りにくるという)
「何も怖くはなかった。」
那覇を出発して2ヶ月。香港、シンガポール、南アフリカなどの港に寄港しながらの長い船旅を終えてブラジルに到着。そこから木炭機関車で1週間かけてボリビアを目指す。
ようやく入植地に着いた時、川が見えた。木炭で真っ黒になった体を洗い流そうと仲間と川に飛び込んだものの、水があまりにも汚くてがっかりしたことを教えてくれた。
そして遂に、手つかずの大自然を相手に開拓の日々が始まる。
大人が7,8人が手を伸ばしてようやく囲えるくらいの大きな幹を持つ、見たことのない大木をなぎ倒し、大地を耕した。
大干ばつに見舞われ、5km先の川には牛を連れて毎日水を汲みに行く。
疫病が流行し、仲間を失い再出発を余儀なくされた。
それでも懸命に開拓を続け、ようやく作物が育ち始めると、今度は槍を持った先住民に襲われた。
そのため、真夜中に見張りの役割が回って来た。
「16歳は立派な青年。嫌な仕事は全部任されたよ。」と、当時を笑顔で振り返る。
聞いたこともない話の数々に興奮気味な私と違い、敬光さんの口調は終始穏やかであったのが印象的だった。
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お昼をいただいたあと、きみこさんが学校まで送ってくれた。昨日に引き続き、小学校の授業を見せてもらうことになっていた。学校にはカップルで旅をしている、あきさんとえりさんと会い、JICAから派遣されている、稲井先生の体育の授業に参加させてもらった。
授業後に子どもたちと遊んでいると校長先生がやってきて、きみこさんが迎えに来るよと告げられた。びっくりしながら校門へ行くと、旦那さんの徹さん(敬光さんの息子さん)も一緒で、なんと農場を見せてくれるという!稲井先生は残念ながらまだ授業があるので、あきさんえりさんも一緒にみんなで連れて行ってもらった。
見渡す限りの麦畑。あまりにも広大な土地すぎて、私の中で畑という概念が変わった。巨大すぎる!農業って、、、、カッケーーーー!
畦道を行く車内では、洪水に襲われて何度も畑がダメになったこと、辺り一面が湖のようになってしまい、ボートをだして取り残された人の救助を行ったことを教えてくれてびっくり。
畑の後、稲井先生を迎えに行って徹さんがご飯に連れて行ってくれた。
しこたま飲ませてもらい食べさせてもらい、お隣のテーブルにいたウチナンチューからはお刺身の差し入れが、、、、!海のないオキナワでまさかお刺身が食べられるとは!
今日一日、自分どんだけよくしてもらってんねん!!!!すごすぎる1日だった。そんな話をすると、徹さんがうちなーぐち(沖縄の方言)、「イチャリバチョーデー」(会えば兄弟)という言葉を教えてくれた。おお〜!なんて素敵な言葉なんだと感動していると、
「でも、ボリビアのオキナワ村でイチャリバチョーデーではなくて、イチャル前からチョーデー、つまり会う前から兄弟ってみんなが思ってるんですよ」
と。
今日1日を振り返って、こんなにもしっくりくる言葉はなかった。イチャル前からチョーデー。また素晴らしい言葉と、それを体現してくれる素晴らしい人に出会うことができた。
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