Go For Broke! 442ndが救った町、フランス・ブリュイエール②
フランスの山奥の田舎町🌲
ブリュイエールにある442ndの記念碑を訪れた、前回ブログの続き。
The 442nd Regimental Combat、442nd(フォーフォーセカンド)は私たちと同じ日本人を祖先に持つ、日系アメリカ人のみで構成された、 アメリカの陸軍部隊です。日系アメリカ人とは、日本から移民としてアメリカに渡った人々の子孫を指します。日米のハーフではありません。
今回のブログでは、日系アメリカ人の歴史、442ndの誕生について書いていこうと思います。
本編に入る前に私の心のうち(更新が遅いいいわけ)も記録として残しておこうと思います。
————————————————————
今回のブログは何度も書いては消して書いては消してを繰り返してました。多分ブログ書き始めてから1番頭を悩ませてました。
442nd、日系アメリカ人の歴史について多くの
人に知ってほしいという気持ちと、どうして知ってほしいのだろうか、そもそもなぜ私は日系アメリカ人という人たちの歴史にこんなにも心惹かれているのだろうか。。。
そんなことを考えながらパソコンに向き合うと、書き出す言葉があっちにいったり、こっちにいったり。
真面目3のおふざけ7のりょん日記ですが、 こちらは真面目3の中の3くらいにはいるんじゃないかと思います。 卒論も引っ張り出してきました。笑
最初は、歴史の概要はウィキペディアとか他のサイトにも書かれているんだし、私が書く必要はないかもと思っていたのですが、ブログを読んでくれている人に自分の言葉でわかりやすく伝えたいと思ったので、日系アメリカ人、442ndの歴史の概要をここに書き留めておくことにしました。細かい話はのせてないのですが、大まかに日系アメリカ人の歴史を知っていただきたいと思います。
長いので、一気に読まなくてもいいです。だけど、最後まで読んでいただけることを願って書きました。
それでは、宜しくお願いします!
—————————————————————
そもそもなぜ移民に?
日本人にとって、一番最初の移民先はハワイ王国時代のハワイ。 1868年に初めて、出稼ぎ移民たちが海を渡りました。
1800年代前半のハワイは捕鯨に変わって砂糖きびプランテーションを新たな産業基盤にする動きがあったものの、人手不足。
なぜなら欧米人が文明とともに持ち込んだ疫病で原住民のネイティブハワイアンの人口が激減していたから。
一方で、当時の日本は飢饉や凶作によって求職者に溢れていました。
労働者不足に悩むハワイと”求職者で溢れる日本。 互いの利害が一致したことで1885年にはハワイ政府と日本政府とで官約移民制度がスタートしました。
ハワイでひと稼ぎして、故郷に錦を飾ろうではないか、、、!!
新天地に夢を抱きハワイに渡った日本人たちを待ち受けていたのは想像を絶する過酷な労働。
絶え間無く照りつける太陽のもと、ルナと呼ばれる監視役に叱責されながら一日9時間以上サトウキビ農場で働きます。
また、住環境が整っているわけもなく、掘っ立て小屋での共同生活が続きました。
当初、ハワイにやってきた彼らは、日本に仕送りをしながら自分も帰国をするつもりでいました。しかし、厳しい労働環境の中、帰国資金の工面が困難であるとわかるとやがて定住を決意し、ハワイに日本人コミュニティを発展させていきます。 独身男性が中心だった初期の移民たちは、日本から家族を呼び寄せたり、写真花嫁の制度 を使い家庭を築いていきました。
1898年にハワイ王国がアメリカ合衆国に併合されたことで、日系移民の支配者がハワイから”アメリカ”に変わります。 そして、ハワイよりも賃金水準の高いアメリカ本土(ハワイに対してアメリカ本土。 mainlandって呼んでる)に4万人近い日本人が転航しました。
本土に日本人移民が短期間で殺到したことはアメリカ人にとって”仕事を奪われる”という脅威的な印象を与え、それはやがて恐怖となり差別、排斥運動を生み出します。
また、それまでアメリカ本土で差別を受けていた中国人移民の差別をそのまま引き継ぐような形とな りました。 白人至上主義のアメリカ社会では黄色人種であるだけで差別の対象となったのです。 日本人は「帰化不能外国人」に分類され、さらに「外国人土地法」によって土地の所有も 禁止されました。 1924年には排日移民法が成立、日本からアメリカへの渡航が完全にシャットアウトされます。
日系2世の誕生
アメリカの国籍法は、”出生地主義”を採用しているので、両親の国籍に関係なく、アメリカ の地で生まれた子どもは全員アメリカ国籍となります。
つまり、例え帰化不能外国人に規定されている日本人であっても、子どもがアメリカで生まれた限り子どもはアメリカ人。そして同時に日本人でもあります。 それは、日本の国籍法が”血統主義”を採用しているから。日本からハワイに渡った日本人は、決して日本国籍を捨てたわけではないので、もちろんこの法律は子どもに適用されます。
*日本から海を渡った人たちを日系1世と呼び、その子どもを日系2世と呼びます。
彼らを総称して日系人、日系アメリカ人と呼びます。
—————————————————————
ちなみに、今生きてる2世の平均年齢はおそらく90歳を超えているかと思います。私と同じアラサー世代はもう4世、5世で、外見こそ日本人であるものの、マインドは完全にアメリカ人で日本語を話す人もほとんどいません。
————————————————————
2世たちはアメリカ人なのでアメリカの公教育を受ける権利があり、普通に地元のアメリカ人クラスメートと一緒に学校に通います。第一言語は英語であり、 民主主義や合衆国憲法を学びました。しかし、住んでいる場所は日本人コミュニティであり、1世の両親との会話は日本語。加えて、日本人の恥にならないようにと、日本人の伝統的価値観のもとで育てられました。
現代に当てはめると2つの国の言葉と文化の中で生まれ育つなんて、なんだか羨ましい気さえします。では、2世が生きた時代とは一体どんな時代だったのでしょうか。
日米開戦
ハワイ、そしてアメリカ本土の日系人社会において2世が人口の6割という大多数を占める 時代、それは1940年代です。
1941年12月7日(日本時間8日)の日本軍による、ハワイの真珠湾攻撃によって日本とアメリカが戦争に突入。
真珠湾攻撃直後には”日本のスパイ”容疑をかけられ、日系人社会のリーダーたちはFBIに逮捕されます。
強制収容所
日米開戦後1942年2月19日、ルーズベルト大統領が大統領行政命令 9066号 に署名したことで、アメリカ本土の日系人の強制立ち退き・強制収容が決定します。
行き先もわからぬまま、持ち物は1人たった1つのスーツケースに制限され、残りは全て売るか処分するしか方法はありませんでした。
日系人の農場、 財産を預かってくれる人はなく、足元をみて売値を叩いてくる白人たち。
そして、失意の中たどり着いた場所は、人が住めないような砂漠地帯のバラック小屋。 有刺鉄線に囲まれた敷地内は常に高台から監視されていました。 「日系人を他のアメリカ人差別から保護するため」なんていう政府の言葉とは裏腹に、監視員の銃口は常の柵の中に向けられていました。
1家族1スペース。別の家族とは布一枚で仕切られるような環境。 共同のトイレ・シャワー・食堂は常に長い列ができて混雑をして混乱していたといいます。
アメリカの敵国であるドイツ系やイタリア系アメリカ人も”適正外国人”(戦争をしている相手国やその国出身者)には変わりありませんが、財産没収や強制収容をされることはなかったことから、日系人への人種差別があったことは否定できません。
一方、ハワイの日系人は一部を除いては収容されることはありませんでした。 というのは、当時日系人は全ハワイ人口の約4割を占める最大のエスニックグループであり、収容する設備の問題に加え、ハワイ経済に大打撃を与えることが目に見えていたからです。
442nd
前置き、というか予備知識のための文章がずいぶん長くなってしまいました。 ようやく、前回ブログとつながる442ndの話に入っていきます。
日米開戦直後、2世たちは「徴兵不可外国人」に分類されたことで、徴兵資格を失います。
ハワイの日系人は収容所行きは免れたものの、差別や偏見の目に晒されているハワイの2 世たちは、自分たちは米国市民であることを証明しようと労働奉仕という形で積極的な軍事協力を行います。生まれ故郷ハワイが襲われたにもかかわらず、何もできない状況に我慢ができなかったというのも事実でした。
2世の働きをみていたハワイの防衛司令官はアメリカ本土の陸軍省から戦前にアメリカ軍の正規兵 として従事していた日系人の退役勧告を拒否。さらに、日系人のみで構成した部隊を編成し、本土のウィスコンシン州に送り込みます。これが、442ndの前身とも言える、第100歩兵大隊(The 100th Infantry battalion:ワンハンドレッドバタリオン:100大隊) です。
100大隊は知能、 実技試験共にどこの部隊よりも優秀な成績をおさめたことで高く評価され、陸軍省は更に 大規模な日系2世の陸軍部隊の結成を計画。
1943年1月、アメリカ本土の強制収容所で生活をする二世3000名とハワイで暮らす二世 1500名の志願兵募集を決定しました。
ハワイでは真珠湾攻撃直後から積極的な軍事協力を行う日系人の姿が目立ったことから容易に想像できるように、日系人の志願兵募集が発表されるやいなや、募集人数1500人を大幅に超える1万人近い2世が徴兵局に殺到。およそ、5人に2人の2世男子が志願しました。
一方アメリカ本土ではハワイと志願兵募集時の様子が全く異なります。アメリカ本土では 募集人数3000名を下回る1182名の応募しか得られませんでした。志願資格のある本土2世男子はハワイ2世とほぼ変わらない人数にも関わらず、このような違いを生んだのは間違いなく強制収容所が原因です。
日系人が強制収容所の生活を強いられてから約 1年が過ぎた1943 年2月から3月にかけて、
「忠誠登録」と呼ばれる思想調査が17歳以上の男女全員 に対して行われました。忠誠登録 の目的は不安因子の把握、 徴兵のためのスクリーニング、そして 442部隊への志願兵募集でした。 生年月日、職歴、外国能力など全28問からなる思想調査が「忠誠登録」と呼ばれる所以 は、問27と問28にありました。
問27
あなたは命令されればどこであろうとすすんで、米陸軍兵士として戦闘任務につきま すか?
問28
あなたは、アメリカ合衆国に無条件で忠誠を誓い、外国または 国内勢力のいかなる 攻撃からもアメリカ合衆国を忠実に守り、日本の天皇や他の外国政府、勢力、組織への忠 誠や服従を拒否しますか?
本調査より事前に発表されたこれらの質問は収容所内を混乱させ、 日系人同士の間に既に存在していた対立関係を一気に表面化させる結果を招きます。
日本の正義と日本の勝利を信じる忠日派
アメリカの勝利と民主主義の正義を信じる忠米派
友人・親戚・親子の間で意見が分かれる事も珍しくなく、所々で争いが起こるようになります。
民主主義国家における、
財産没収、強制収容という現実。
戦争が生んだ現実は、信じたいものを容易には信じさせてくれない状況を作り出しました。
両親の生まれた国、日本。
自分が生まれ育った国アメリカ。
自分がアメリカ人であることを否定されている、収容所での生活。。。
大なり小なりの葛藤の末、志願を決意した本土2世たちに共通している想い、それは、志願兵として戦場に行くことが、アメリカへの愛国心と忠誠心を示すことであり、アメリカ社会において認められる唯一の方法であるということでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
誰よりも強い決意で戦場(ヨーロッパ戦線)に向かった442ndは、死傷率 314%という甚大な犠牲と引き換えに、名誉勲章(Medal of Honor)をはじめアメリカ陸軍史上最も多くの勲章を授与された最強の部隊として後世に語り継がれる存在となりました。
終戦後に唯一大統領から直接出迎えられた442ndがトルーマン大統領から送られた言葉が、彼らが何のために戦ったのかを改めて教えてくれます。
“you fought not only the enemy, but you fought prejudice—and you won”
「君たちは敵と戦っただけでなく、偏見と戦いそして勝ったのだ。」