ロサンゼルス、リトル東京で昼酒を浴びた日。前編
2017.05.04
アメリカ上陸2日目。
ハリウッドのチャイニーズシアターの目の前のホステルで目を覚まし、今日はお出かけ!
本日のミッションはこちら
↓
ララランドのロケ地に行く!(後編)
ーーー午後4時ーーー
うおおおお!!!まじかあああああ!!!!
博物館の出口にあるソファで目を覚ました私は、逃げるようにして博物館を去った。。。
なんも頭に入ってこなかったわ。。。。
一体私は何をやっているんだか。。。
ーーー遡ること5時間前ーーー
日本語の表記が面白い。
1885年に漁師(?)のカメさんがロサンゼルスのダウンタウン(繁華街)にレストランをオープンさせたのがきっかけに人が集まりはじめる。
1900年代に入る頃には「小東京、リトルトーキョー」と呼ばれ、なんと3万人もの日系人が生活をしていた。日本食品店や飲食店はもちろんのこと、日用雑貨店、野菜・魚市場、銭湯、教会、お寺などなど必要なものは全てあった。
しかし、1942年、第二次世界大戦が開戦すると日系人は強制立ち退きを余儀なくされ、街はゴーストタウン化。現在のリトル東京は戦後ロサンゼルスに帰って来た日系人たちの復興、再開発によるものである。
そのリトル東京にあるのが、日系移民の歴史を学ぶことができる、日系博物館(Japanese American National Museum)。
留学中に一度来たっきり。今回改めて勉強しようと思い足を運ぶことにした。
日本村プラザへ
博物館の道路を挟んで向かいにあるのが、日本村プラザ。その名の通り、日本関連のお店が密集している商業施設。
うん!外国人の日本のイメージって感じ!外国の中にある日本ってすごく興味深い。
こーゆーカオスな感じも好き。
小腹がすいたのでパン屋さんで休憩。外の席には日系人と思われるおじいちゃんが新聞を読んでる。
日系3世の人かな~?お話聞いてみたいな~。
そう思っていると、、、、
こうなった。笑
話してみたいよ光線が効いたのか、「一緒に飲みましょー」とナンパ(?)されて日系人のおじさま達と飲みに行くことに。笑
真ん中で帽子をかぶっている男性が声をかけてくれた、ハワイ島出身のトマさん。元軍人。性格:お茶目
「トマさんに日本に行ったことはある?」
って聞くと。
「ないよ。でも沖縄にはあるよ。」
と言っていたのが印象的。
「さっき買ったいいものがあるぞ!」と言って、豆腐やらカニカマやらさつま揚げといった呑んべえ御用達おつまみが袋から出される。アメリカ人なのに、好みが完全に日本人。
持ち込みオーケーなのは常連だからなのか、ここがアメリカだからかはわからないんだけど、こんな自由の国が好きだ!笑
いやー!楽しかった!!!!!!!
何話したかわかんないくらい楽しかった!!!!
「また明日もこの時間に集合だからなー!」と、本気かどうかわからない約束をした後、小躍りで日系人博物館に向かった。
もちろん、ベロベロの私には展示は1つも目に入ってこなかった。
ーーー午後4時ーーー
うおおおお!!!まじかあああああ!!!!
私は博物館の出口にあるソファで目を覚ました。
後編に続く。。。。
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グッバイEurope。ポーランド、グダニスクより。
アナタは今、テーブルの上にあるアイスカフェラテに気がつきましたか??気がついたあなたは物事の本質を見極める力をお持ちです。そのままのアナタでいきましょう。ラッキーアイテムはプラスチックの蓋。
ヨーロッパ最終日
リトアニアを後にして、向かった先はポーランドのグダニスク。次の日のアメリカ行きのフライトのために一泊する。
バルト海に面した港町。美しい〜!
冒頭の写真はお散歩がてら入ったカフェの壁。クセがスゴい!
テーブルのアイスカフェラテに全く目が行かなくて、だまし絵かと思うよね!
念のためもう一度貼っておくね!
ヨーロッパ最終日、泊まったホステルで友達ができた!
受付で働いていたクリスティンは中国語を勉強していて、日本文化も好き。難しい日本の本を読んでいた。
と~っても親切にしてくれて、ザーピー🍕とルービー🍺をご馳走になってもーた🙏
てか私のバックパッカー感、今見るとなかなかなものだね。w 髪の毛のボサボサ具合がカウナスティック!(まだひきずってる)
異国で異性と2人きりだなんキケンじゃない?とか1mmでも思った自分を殴ってやりたい。頭の上に死神みたいのいるしw
クリスティンはなんと、私がここ数週間血なまこになって探していたラ・ラ・ランドの無料動画を一瞬で見つけてくれたのだ!!!!ロスが舞台だし、ロサンゼルスに行く前にどうしても見たかったからめちゃくちゃ嬉しいかった〜!!
グダニスクは琥珀が取れるから、琥珀採集の話とかしてくれて、ヨーロッパ最終日にとっても良い思い出ができました⭐️
いざゆかん、アメリカへ
LA行きの待合スペースでは、「sushi~!❤️お寿司食べるの楽しみ~!」っていう声がちらほら聞こえてびっくり。ヨーロッパの人はLAの寿司を楽しみにするのか~。
そしてさらなる感動、
ラ・ラ・ランド見れるやないかーい!
てことで二日連続でララランド。
二日連続で泣きましたとさ。
ミアとセバスチャンの、「あったかもしれない未来」を描くラストシーン。
まじ泣ける。。。
いつか大好きだった彼と行ったLA旅行に思いを馳せながら、おセンチな気分に。
LAでおセンチになるとか、お洒落かよwwwww
そんなセンチメンタルジャーニーの末、飛行機はアメリカに上陸!
まず驚いたのは人種の多様性!
しばらく東ヨーロッパで白人しか見ていなかったから、こんなにもいろんな人種がいることにびっくり!それでみんなアメリカ人!ってとこが素晴らしい。実情は別としてもその考え方がやっぱり素晴らしい。
それから肥満!!
ヨーロッパは縦にでかいひとばかりだたけど、こちらは横にもでかい。マジででかい。
目からの情報の次にきたのは匂い。
少し湿気のある感じ
洗剤、石鹸の匂い
匂いって記憶を蘇らせるっていうけど、本当そう。
アメリカ留学の頃を思い出す。
故郷でもなんでもないけれど、うわ〜懐かしい〜と思わず声がでる。
そして毎回思う。懐かしいって英語でなんていうの???
it reminds me a good time???誰か教えて!
とりあえずお腹すいたので、SUSHIくいね〜🍣
セブンで購入。4ドル
ワサビはワサビマヨネーズだった!
食べれるけど、、、、、うん。。。って感じだった。
米がジャンク。お米に愛情を感じない。。。古くなってしまったお米を炊いて
次の日チンしてそれでもあまったから冷蔵庫に入れてまたチンしたご飯で無理やり作りましたレベルに愛情がないお米でした。。。
空港からハリウッドまでメトロ乗ったんだけど、
席の譲り合いのスピード考がすごい!みんなゆずってる!!!!!
ってことで、アメリカ編始まるぜ~い!
前回ブログ、嬉しいコメントをありがとうございました🙏
私のブログは私自身と同じように真面目と不真面目のハーフアンドハーフなので、当たり外れもあるかと思うのですが、皆様どうか温かい目で見守ってください!そして、たまに感想とか言ってもらえると嬉しいです☺️
ってことで、ブログランキングにも再参戦〜!
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リトアニアはカウナスに。杉原資料館
前回ブログでリトアニアに上陸した私。
カウナスティックな宿を出発し、向かう先まであと100m。
宿から30分くらい歩いたかな?ようやく到着。
ここは杉原千畝記念館。「ちうね」と読みます。
もしかしたら名前は聞いたことある人もいるかもしれない。「日本のシンドラー」「命のビザ」とか。
6000人の命を救った日本通過ビザ
今、記念館となっているこの建物は、1939年にカウナスに領事館を立ち上げた杉原さんが実際に働いていた場所。
当時、ドイツとソ連の急激な領土拡大に世界中が目を見張っていたため、ちょうど真ん中に位置する独立国のリトアニアには、世界中の国が領事館を建てまくっていたらしい。杉原さんは表向きは外交官として赴任しましたが、主な活動は情報収集。要するに諜報活動だったといえます。
1940年7月18日早朝。
領事館の外に人が溢れかえります。彼らはヒトラー率いるナチスドイツの迫害から逃げてきたユダヤ人難民でした。日本に入国するために、杉原さんに助けを求めてやってきたのでした。彼らの残された唯一の方法は、
ソ連(モスクワ→ウラジオストック)→日本(敦賀)→アメリカなどの第三国
日本の通過ビザさえあればソ連に入国が許可されるため、これが最後の望みでした。
しかし、通過ビザ発行には最終受け入れ国の証明書、旅費が必要ですが、ユダヤ人難民の多くがそれを持ち合わせていませんでした。また、当時の日本はドイツと日独防共協定していたため、ビザを発行すれば日本との関係が悪くなる可能性も否定できません。。。また、一緒にいる家族も危険に巻き込む可能性も大いにあります。これらの問題を踏まえつつも目の前にいる人たちを救おうと、杉原さんは日本政府にビザ発行の許可を求めます。
しかし答えはノー。
「ビザの発給条件を満たさないものにはビザを発給してはならない」
この回答に杉原さんは悩みに悩み、、、ついに決断をします。
「忘れもせぬ1940年7月29日から、1分間の休みもなく、ユダヤ難民のための日本通過ビザ発給作業を、開始した次第です」
苦悩の末に出した答えは「人道、博愛精神第一」でした。
翌月の8月3日にリトアニアはソ連に併合され、領事館の閉鎖も決まります。
杉原さんは領事館が閉鎖された後もカウナス市内のホテルでビザを書き、リトアニアを去る直前の電車の車窓からもビザを書き続けたそうです。
領事館閉鎖まで約1ヶ月の間で発行されたビザの数は2139。
それによって救われたユダヤ人は6000人以上。その子孫は今現在、世界中に20万人以上いるとのことです。
「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私を頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです」
リトアニアを去った後も杉原さんはドイツの動向を探るために命がけで情報収集し、ドイツが独ソ不可侵条約を破り、ソ連侵攻準備を企てているという情報を掴みます。
その当時、日独伊同盟に加盟していたにもかかわらず、その事実を日本に知らさないドイツは危険であり、手を組み続けるべきではないと政府に訴えますが日本を平和の方向に導こうと働きかけることも虚しく、日本は第二次世界大戦へと突入していくのでした。
戦後、日本に帰国した杉原さんは外務省を退職。元同僚たちからはビザ発行で金儲けをしていたんじゃないかなどといった、根も葉もない噂がたったと言います。
杉原さんの純粋な行動が日本で認められるのはもう少し先の話でしたが、1969年にイスラエル政府からの招待を受け、勲章を受けます。(イスラエルは全人口の75%がユダヤ教)そして、1985年には同じくイスラエルより、「諸国民の中の、正義の人」を意味するヤド・バシェムを授与。そのよく年、1986年に鎌倉にて亡くなりました。
数年前からは杉原さんの生まれ故郷、岐阜県八百津町や敦賀などを回る観光ツアーがイスラエル人に大人気なそうです。私もいつかいってみたい!
最後に、カウナスで出そうとして出しそびれたポストカード(左下)に当時の気持ちが書いてあったから抜粋。(右は早稲田の学生団体が作った杉原千畝本。すごくよかった!)
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杉原さんの話、すごく感動した!アウシュヴィッツ行って、人間てここまで残酷になれるもんなんだって思ったから、杉原記念館に行って、人をすくのもまた人だなって。
旅をしていてもそうだけど、やっぱり人って思う。
何をするか、何を見るかより、誰と共にすごすかってことが自分にとって一番大切だってわかったよ。 2017.05.01
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駆け足だったけれど、
いろんな歴史とヒーローたちにふれたヨーロッパ旅は大満足!
散りばめられていた点が線になる感覚がありました!!
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リトアニアはカウナスへ。厚切りジェイソンおばさんとのカウナスティックなメモリー。
ひっさびさの旅のブログ!
ポーランドを後にして向かったのは、こちら!
カウナス+ファンタスティックでカウナスティック。(中々責めるな、、、)
ビーツの真っピンクなスープ!う〜ん!カウナスティック!
ビーツのスープ!まっぴんく!マヨネーズみたいな味がした。ゆで卵入ってた。お花見ピクニックとかに作ってみたい#ビーツ#スープ#冷製スープ
泊まったゲストハウスは中々雰囲気の良い場所でした〜こちらも本当にカウナスティック!
2017/0428-0501
ゲストハウスのお気に入りの壁〜もちろん〜?
カウナスティック!
この可愛い壁のあるキッチンで久々の日本食を自炊してウキウキしていると、ホワァーーーイジャパニーズピーポーって厚切りジェイソンと同じように眼鏡をかけているオバさんに喧嘩売られた。ちなみに私も最近は8割型眼鏡かけてる。
「ホワァーーーイ!何で日本人の女って、かわい子ぶってるわけ?」
「いつまでたっても子どもっぽく振舞ったり、自立してなかったり、ホワァーーーイ!何なの!??」
まあ落ち着け。ここはなでしこジャパンとして正々堂々と立ち向かわねば。
ひとしきり話をし終わると「お茶でもどう?」って誘われて、
「Sorry,i have a plan」
(訳:お前のメンタルどーなんてんだよ!行くかボケええええええええええ)」
そのあと1人でお茶した時のメモがこちら📝
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リトアニアの宿にて
なんでどうしてそんな意地悪な質問をするんだろう
少女のように振る舞うとか自立してないとか
言い返せたことに対しては誇らしいけど、
ちゃんと論理的に反論できない自分も悔しい。
バカにされているよね?
舐められているよね?
でもやっぱり私は日本が好きだから。
聞いてやればよかった、あなたは一体日本人を何人知っているのって?
そしたら私もリトアニア人は意地悪な質問をする人たちって、今後は思わないといけないわねって。。。
そこまでの頭の回転がなくて苦しかったけど、
私はあのリトアニア人の女性が嫌いだ。
全然話を聞いていないで
他人を否定する。
相手からネガティブな回答を引き出そうとする。
「意地悪な質問」とはまさにこのことだろう。
会話は、その人がどこに持って行こうとしてるのかに敏感になるべきだ。
例えば誰かの悪口や改善のない不満を発することを煽るような人であれば、一緒にいることは得策ではないだろう。適当に理由をつけるべきか、ストレートに私はあなたといると楽しくないのでごめんなさいというべきか。。。
微妙な距離の友達は、たちが悪いな。
ここで正直にいうと自分から労力を割いてまで会いたいと思う人はごくわずかだ。
そして、彼らは皆忙しい。
忙しくない人は変化していない人だ。
常に自分を進化させて行く人は大抵忙しい、はずである。
嫌な女の話から随分遠いところまできたな。。。
無駄なことをやってる時間も
変えられないことに費やす時間も全部無駄だ。
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うっっっっっわっっ!なんか、耳が痛いかもwwwww
旅中のメモや日記を見返すと、本当に同じ人間かよってくらい素晴らしい人間でビビる。笑
どうして旅をしていた時のように本質を見抜くことが日常では難しくなってしまうのだろうか。。。
旅が楽しかったのは毎日がシンプルだったからだと思う。
いろんな景色を見たり色んな人に会ったりもそうだけど、
頭がクリアで、”当たり前”なんてないことをよくわかっている。
だから感動と感謝ができる。
当たり前にずっと続くことなんて何にもないのに、同じような毎日を過ごしていると、目の前のことがずっと続くと思ってしまう。そしてそこに甘える。
行動して、変化して、当たり前に続くものなんんて何もないんだって、一瞬一瞬に感動を感じれる感性が豊かなヤマトナデシコになりたいものだわ、イトオカシ。
そのために、 最近、大好きな友達が教えてくれた万能のおまじないを毎日唱えようと思う。
今日だけは
怒るな
心配すな
感謝して
業に励め
人に親切に
みんなの日常で大切にしている言葉、あれば是非教えてください❤️
ひっさびさの旅ブログ〜で始めたのに何だか別の方向にw
カウナスティックなテンションで、とりあえずブログ更新グセをつけるぜ〜〜〜!
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コロンビアの深イイ話。メデジン・サンタプロジェクト編
今年も残すところ、あと10日。慌ただしい日々を送っていますか?
スーパーのクリスマスグッズが鏡餅に押されはじめたように、気持ちが新年に向きつつありますが、来週に迫るクリスマスを楽しみにする心の余裕が持ちたいもの。
そんな時は、たとえ30分でもカフェでのんびりするのが一番。
真っ赤に彩られた店内に流れるホリデーソングとコーヒーの香りに癒され、
一息ついた頃には、すっかり優しい気持ちに。
そうだ。コーヒー好きのあの子には、すっきりとしたコクのある、コロンビア産の豆をプレゼントしよう。
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南米コロンビアを訪れたのは2016年7月の終わり。
恥ずかしながら抱いていた国のイメージとしては、
コーヒー。サッカー。麻薬王??こんなものだった。
当初2,3日過ごすだけの予定だったのだけど、色々な偶然が重なり、カオリさんという日本人女性のお宅に2週間居候させてもらうこととなった。(この話はまたどこかで)
カオリさんの住むメデジンはコロンビア第二の都市。
日本から21時間くらい。
観光地としての情報が乏しい分、訪れた人をより一層感動させる。温暖な気候、人の優しさ、気さくさ、オシャレな町に美味しいコーヒー。そして、至る所で見かけるモデル級の美男美女たち。
もちろん治安がいい場所だけではないけれど、それはどこでも同じ。外国人である自覚と安全管理さえすればとっても快適に過ごせる街だと思う。更に嬉しいのは、メデジンには日本を愛する人たちがたくさん住んでいるのだ!
メデジン日本語クラブ
日本文化のワークショップや季節の行事を通した文化交流を行う、メデジン日本語クラブ。日本語教師をしているカオリさんが、学生たちの交流の場として発足。今ではすっかり地域に溶け込み、地元民の交流の場ともなっている。日本から来た旅行者はいつでもウェルカムだ。
私が日本語クラブのみんなに会ったのは8月のはじめ。あの東大の寄付で建てられたベレン図書館で12月に予定している演劇公演のキャスティング真っ只中だった。
サンタ・プロジェクト
「ニーニョ・ディオスにはなれなくても、
サンタクロースにはなれる!!」
これは日本語クラブが毎年12月に行う演劇公演活動、”サンタ・プロジェクト”の合言葉。
コロンビアの子どもたちにプレゼントを持ってくるのは、サンタクロースではなくニーニョ・ディオス。
つまり”神の子イエス・キリスト”。
お父さんお母さんがこっそりサンタ役をする日本と違い、コロンビアの子どもたちはニーニョディオスの名の下に両親がプレゼントを用意してくれることをよく知っている。
だからこそ、両親のいない子どもたちにとって、クリスマスは辛い。。。。
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マヌエルが泣いた。
『オレ、クリスマスは嫌いだ。。。。
一年中で一番寂しくて、一人ぼっちで、
やりきれない気分になるから。
母さんはオレと姉ちゃんを捨てた。
許せないし、憎んでる。。。。
でもクリスマスは・・・
やっぱり母さんに会いたいんだ』
(カオリさんの日記より抜粋)
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日記の中の少年マヌエルはカオリさんが以前に施設で出会った少年だ。
貧富の差が激しいコロンビアでは様々な理由で両親と暮らせない子どもたちが多く存在する。
そんな子どもたちの、サンタとなるべく、サンタ・プロジェクトでは児童養護施設や貧困地域で公演を行い、今年でなんと10周年を迎えた。
10周年の節目として参加したクラウドファンディングも見事成功!活動詳細は必読!
サンタ・プロジェクトは日本の昔話や神話を題材にしており、今年の演目は「かぐや姫」。スペイン語、日本語の両方で楽しめる。
「かぐや姫」の公演は残すところ12月22日の千秋楽のみとなった。
会場は国内避難民居住区に隣接している。移動、公演共に治安上のリスクがあるのだが、あえてそこに行くのは、難民の子どもたちを招待するため。
コロンビアは1966年から2016年までの50年続いた内戦の結果、22万人が死亡。740万人が住む場所を追われ、難民となった。
「クリスマスに寂しい思いをしている子どもたちに笑顔を届ける」
「日本文化を通して子どもの世界を広げる」
サンタ・プロジェクトの意味をこう話してくれたのは(しかも日本語で!)参加6年目、演出を務めるクリスティアンさん。
限られた文化環境で生活をする子どもたちに「日本」という外国を紹介することで、「異文化理解・他者理解」という”平和の種”をプレゼントする。
彼らのまいた”平和の種”がすくすくと育ちますように。。。
¡Feliz Navidad y Próspero Año Nuevo!:
メリー・クリスマス、そして良いお年を!
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番外編:旅カフェGIFTというパワースポット
お疲れっす〜!
最近の気温の変化に戸惑いながら、新しく買ったお洋服に袖を通してちょっぴりウキウキしながらこれ書いてます。
相変わらずブログが全く更新できないカクカク詐欺師のりょんりょんです。良くも悪くも染まりやすい私はすっかり地元ライフに溶け込み、目の前の日常に追われた生活をしています。笑
そんな平凡な毎日の中で非日常体験をしているのが、
下北沢にある旅カフェGIFTでのアルバイト。
インドで出会ったセカマタpinoちゃんが店長ということもあり、
色んな出会いと縁が生まれる パワースポットなんです。
そしてそのご縁で、この度OKINAWA41という沖縄の魅力情報情報発信サイトに、ボリビアの記事を寄稿させていただきました!
なんとライターとして初めてのお仕事。感慨深いです。
記事はこちら:
こんな仕事が増やせるよう、良い文章を書けるようになりたいので、
是非是非アドバイス、感想が欲しいです!
それからもちろんお仕事依頼も大歓迎です!宜しくお願いしまスーーーーーー!!!
アウシュヴィッツを訪れて。
チェコではその後、ブルノという街に移動し2泊ほどした。
街並みは綺麗だし、物価も安い。ビルの三階にあるホステルもなかなか居心地もよく、メキシコ人の友達もできた。
そのあとはまたバスに乗ってポーランドのカトヴィツェという町に向かった。
ポーランドに来た目的はただ1つ。
負の世界遺産である、「アウシュヴィッツ強制収容所」に行くこと。
ここも世界一周中に必ず訪れたいと思っていた場所。
アウシュヴィッツの存在を知ったのは、ドラマ「白い巨塔」で唐沢寿明演じる財前教授が学会出張の合間で訪れるシーンを見て。
その時ホロコーストについて知っていたかは覚えていないけれど、ただならぬ重苦しい雰囲気がすごく衝撃だった。それから高校生になってから友達に「シンドラーのリスト」を勧められたりして、いつか自分もアウシュヴィッツに行ってみたいと思っていた。
そして、大人になった今、そこで自分自身が何をどう感じるかに興味があった。
ダッハウは一番古い強制収容所で、他の収容所のモデルになったところ。
それから日系アメリカ人部隊の442ndが解放をした場所でもある。
ツアーデスクで英語のツアーに申し込む。
本当は日本人唯一の公式ガイドの中谷さんにお願いしたかったんだけど、ツアーではなく個人で行くにはアウシュヴィッツのHPから予約が必須で、今回は残念ながら直前すぎて予約が取れなかった。
英語ガイドのツアーは90%理解できたと思う。
内容は基本情報がほとんどで、ほぼ事前に調べたものと変わらなかった。
いざアウシュヴィッツを訪れたものの、なんだかあんまり現実的に感じられない。ダッハウの時と同じで、なんだか自分とはすごく遠い世界の出来事のように感じてしまった。
遠い国の遠い昔の出来事。本当にこんなことがあったのかな?
自分の生きてきた道を過去にひっぱても繋がっているようには思えなかった。
そんな自分に危機感を感じた。
でも、途中でユダヤ教徒の人とすれ違った時は心がチクリとした。
こんなに多くのユダヤ教徒の人を見たのはイスラエルに行った時以来。
彼らは一体どんな気持ちでここにいるのだろうか。
大量のメガネ、靴、くし。それから髪の毛。
髪の毛で繊維をつくるだなんて、一体誰が言い出したんだろう?
いろんな展示があったけど、胃の奥がずしっと重くなったのは、
写真がずらーっと展示されている廊下。
全員丸刈りにされ、囚人として撮られた写真。
もちろん誰の顔にも表情はなく、ただレンズを見つめている写真。
これが、人生で最後の写真で、その後も残っていく写真なんだと思うと気分がひどく滅入って目眩がしそうだった。
ヨーロッパ各地から連れてこられたユダヤ人たち。
ここでは医者による選抜が行われ、働けるものは収容所へ、働けないものはガス室に送られたそう。
「彼らが歩いた先に待っているのは死だけでした」というガイドさんの言葉を聞いた後、皆でその道を静かに歩いた。
ふと、スペイン巡礼時の記憶が蘇る。
歩くこと自体が楽しくて、歩いた先はいつも温かい場所だった。
人って怖いな。ってこと。
もう少し言うと、人の信じる力が怖いって思った。
当時のナチスも、現代のテロリストも別に自分たちが間違ったことをしているなんてことは1mmも思ってなくて、自分の中の正義を貫いただけなんだと思う。
残虐なことを悪意を持たずにできてしまう怖さ。
客観性を排除して、閉鎖的な思想を盲信してしまう危うさを、誰もが持ってるのかもしれない。自分がそうならないため、社会にそれを生まないためにに出来ることとは。
それを考え実践することが、歴史から学ぶということなんだと思う。
それでは今回はこの辺で。
夏だし、平和や戦争について考えたいよね。